かつて『空間の詩学』のなかでガストン・バシュラールは、「イメージが新しいとき、世界は新しい」と書いている。幾何学的で計測可能な空間において、そこに記憶や夢想といった人間の内面的な価値がイメージとして立ち現れるとき、その空間はもはや静的な、あるいは暗喩的な存在を超えて、直接的に「経験」され続けるのだという。
20世紀フランスの科学哲学者が形而上から現象学的な詩的想像力へと跳躍を見せた名著をこの場で取り上げるのは、6月のパリ・ファッションウィークに合わせてオープンしたスポーツブランド「On」の期間限定SS27ショールームで催された瀟洒なディナーの席で、その空間デザインのインスピレーションの源泉として同書(の英語版のペンギン・クラシックス)を手渡されたからだ。
でもそれだけではない。抽象的・均質的で測定可能な科学の世界と、そこに立ち現れる非合理で、非物理的で直接的な人間の感覚。この両者を「共に」体験させることはいかにして可能なのか──。それは、世界で躍進を続けるスポーツブランドOnが、その根底にもち続けている大切な哲学的問いなのだという事実が、その晩に供された美味しいフランスワインとのマリアージュによって腹に落ちていったからでもある。
Onが唱える「Run On Clouds」という科学に裏打ちされた感覚的なキャッチフレーズや、「感覚をエンジニアリングする」というイノベーションの思想に、Onの哲学は色濃く現れている。今回、Onは世界の限られたメディアに向けて初めてチューリッヒにある本社の固く閉ざされていた研究開発施設「On Lab」の扉を開き、スイス発のイノベーションの数々を垣間見せてくれた。創業から16年、独自のクッショニングシステム「CloudTec®」が一世を風靡し、シューズ製造に革新をもたらした「LightSpray™」テクノロジーによってパフォーマンスシューズに再定義をしかけるOnの、イノベーションの源泉を探る旅へようこそ。
イノベーションへのマインドセット
ラボ見学に先立ち、チューリッヒ本社ビルで行なわれたパネル「From Lab to Lap: Welcome to On's Innovation Engine Experience」で、3人の共同創業者が語ったのは、技術の話であると同時に、ひとつの矛盾に挑む話でもあった。「感覚」という、本来数値化できないはずのものを、いかにして設計するか──。
その原点にあるのは、あるひとつの問いだったという。共同創業者のオリヴィエ・ベルンハルドは、かつて自らも競技に打ち込んだトライアスリートだ。「走るという感覚は、根本的に違うものになり得るのではないか」。この問いが、すべての始まりだった。
開発パートナーを探していた頃、シューズの原型を前にしたエンジニアたちに「これは不可能だ」と告げられた経験を、ベルンハルドはいまでも鮮明に覚えているという。「彼らはこの業界に30年、40年といる専門家でした。その専門家たちが不可能だと言うなら、それはまだ誰もやっていないということです」
今回の「From Lab to Lap」で創業者たちの口から出た言葉は、「誰も挑戦していないからやる」「限界を受け入れない」「クレイジーな仲間」「不確実性を恐れない」。まるで、『WIRED』が90年代から取材してきた古き良きスタートアップの精神そのものだった。既存品を模倣せず、失敗を成功の一部として受け入れる姿勢 ── On社内で「アスリートのマインドセット」と呼ばれるこの態度は、感覚という曖昧な出発点を、恐れずに扱い続けるための土台になっているのだ。
その曖昧な感覚を、実際に構造へと落とし込む役割を担うのが、キャスパー・コペッティの語る「構造的フォームエンジニアリング」だ。「Onについて、多くの人はまず “穴” を思い浮かべます。でも今日お伝えしたいのは、Onの本質はまったく別のところにあるということです」とコペッティは語る。
フォーム(泡材)という素材そのものに構造を与え、着地では柔らかく沈み込み、蹴り出しでは弾き返す。柔らかさと安定性という、本来トレードオフとなるはずの二つの性質を、一つのミッドソールのなかに共存させる。つまり、「柔らかい」「安定している」という感覚は、Onにおいてすでに、フォームの密度や配置という設計変数に翻訳され、計測可能な対象になっているのだ。
では、その感覚をどこに届けるのか ──マーケットへの視点を語ったのが、デイビッド・アレマンだ。所有よりも経験や健康に価値を置く新しい消費者層を、アレマンは「Movement Class」と名付ける。かつて旅行が特権階級だけのものだった時代に鞄職人が高級ブランドへと変貌したように、あるいはパソコンが個人の手のひらに収まった時代に道具がアイデンティティへと変わったように、いま、運動そのものが人々のアイデンティティになりつつあるという。
3人の語る言葉は、別々のようでいて、同じ一点に集約されていく。感覚は、結果として生まれるものではなく、設計できる対象である、という確信だ。その根底には、スイスという国そのものがもつイノベーションマインドへの自負がある。
人口比で世界最多の特許登録国であるスイスにおいて、Onは昨年1年間で200件の特許を取得した。アレマンは「スイスと聞いて、製品を思い浮かべるのではなく、感覚を思い浮かべてほしい」と語る。精密さと品質への信頼を核にもつ国から生まれたブランドだからこそ、感覚という捉えにくいものにも、エンジニアリングの解像度で向き合える。そう3人は考えている。
Onの “メイカースペース”
チューリッヒ市内を流れるリマト川のほど近く、On本社の建物群の一角に「On Lab」はある。プロトタイプをつくり、壊し、またつくり直す──そのサイクルをひたすら繰り返すためだけに存在する「いわばメイカースペースだ」とベルンハルドは語る。「ここは科学がクリエイティビティになる場所」なのだと。
今回、世界の限られたメディアに初めて公開されたこのラボで(ただし撮影も録音も禁止だった)一際目を引いたのが、量産品の完成度とは対極にあるプロトタイプの数々だった。白いテープで貼り合わされた靴の原型に、青いペンで書き込まれた矢印と寸法。その側面には、緑色のチューブの断片が無造作に括りつけられている。これがまさにCloudTec®の原型だ。
ベルンハルドによれば、創業当初は予算も設備もなく、身の回りにある素材を切り、貼り、履いて近所を走っては壊す、という試行錯誤の繰り返しだったという。「お金はなかったが、野心だけはあった」。ホースを切ってクッションとして靴底に括りつけただけのその試作品を見て、これが16年後に世界的なブランドへ成長する原点なのだと真顔で言われても、当時なら冗談としか思えなかったはずだ。
Onのすべての出発点になったハンドクラフトから連綿と受け継がれるメイカーズ魂。『WIRED』が2012年に特集したメイカーズムーブメントから10数年の時を経て、いまや日本でもそのネクストステージが胎動しつつあるなかで、スイスの「On Lab」にはその最良のケーススタディが日々積み上がっているのだ。
なぜトップアスリートに愛されるのか
Onがイノベーションの核として繰り返し語るのが、トップアスリートとの協働だ。ベルンハルドは「彼らは単なるアンバサダーではなく、社員も同然だ」と明言する。開発チームはアスリートからのフィードバックを製品に反映させ、実際のレース環境での検証を重ねている。
ラボ内のスポーツサイエンス部門を訪れると、ちょうどトライアスリートが酸素摂取量を測定するマスクを装着し、トレッドミルの上で走る様子を見学することができた。周囲に設置されたモーションキャプチャー用のカメラが着地時の身体の沈み込みやフォームの変化を捉え、ランニングエコノミーやクッション性能を数値として可視化していく。同社が「フォームの性能開発の中心」と位置づける施設で、日々こうした検証が繰り返されているのだ。
その成果は、すでにレース結果として表れている。次世代レーシングシューズ「Cloudboom Strike 2」を着用したアスリートのうち、6名が自己ベストを更新。ヘレン・オビリはロンドンマラソンで1分48秒、イエマン・クリッパはパリマラソンで48秒、それぞれ自己ベストを更新して結果を残している。
ちょうどチューリッヒからパリへと続いた今回のメディアツアー最終日には陸上ダイヤモンドリーグ・パリ大会が開催され、パリのスタッド・セバスティアン・シャルレティでOnのシューズを履いた三浦龍司選手が男子3000m障害で今季ベストの8分10秒70を記録し、5位に入賞している。
LightSpray Cloudboom Strike 2という未来
今回のラボ公開のハイライトが、7月30日に日本でも発売される「LightSpray Cloudboom Strike 2」だ。この一足には、Onが16年間積み上げてきたイノベーションのすべてが凝縮されている。
最大の特徴は、アッパー製造そのものを変えた「LightSpray™」技術にある。従来、シューズのアッパー製造には複数の工場をまたぐ約200の工程が必要だった。LightSpray™は、ロボットアームが1.5kmにも及ぶ特殊なフィラメントをラスト(靴型)に直接吹き付けることで、この全工程をひとつの自動化プロセスに圧縮した。その技術は、『WIRED』が2月韓国・釜山で取材したこちらでも伝えている。
実際にぼく自身も昨年9月の「On Labs Tokyo」でこのLightSpray™を使用したプロダクトに足入れする機会があった。その軽さと皮膚のようなアッパーに驚いたが、今回の「LightSpray Cloudboom Strike 2」は明らかに装着感が格段にアップしていた。製品前となるプロトタイプの「LightSpray Cloudboom Strike 2」を履いてパリのホテルの周りを軽く2〜3km走ってみようと外に出て、うっかり10km以上気持ちよく走ってしまったのも、その軽さと柔らかさに気持ちが乗せられたからだ(もちろん、パリの街並みの美しさのせいでもある)。
念の為に確認しておくと、「LightSpray Cloudboom Strike 2」はプロアスリートと共同開発された、スピードに特化した一足であり、その真価はタイムを求める上級ランナーこそが味わえるものだ。つまり地元の鎌倉でトレイルやビーチをのんびりと走るぼく自身のためのものでは必ずしもない。そう思って、今回は「LightSpray Cloudboom Strike 2」を履いてトレッドミルの上をキロ3分40秒で走る体験にもトライした(こんな速さで走るのは高校生以来だ)。翌日には膝の周りのいくつかの細かい筋肉や、何よりも腹筋が筋肉痛となったのはご愛嬌だけれど、もしかすると、この一足を手懐けることは、体幹トレーニングにももってこいなのかもしれないと感じた(あくまでも自己責任で)。
Onが創業初期から掲げる「Run On Clouds」というキャッチフレーズは、もともとは柔らかな着地と力強い蹴り出しという、両立しがたい二つの感覚を一言で表すための言葉だった。ただ、LightSpray Cloudboom Strike 2に足を入れると、「雲の上」がもはや比喩ではないことを体感できる。感覚を言葉で語ることから、感覚を構造としてエンジニアリングすることへ。創業時に掲げたスローガンが、16年の技術的探求を経て、ついに文字通りの実装に至ったのだ。
ケープタウン大学の検証によれば、LightSpray Cloudboom Strike 2は業界トップクラスのベンチマークシューズと比較して、ランニングエコノミーが1.6%向上したという。重量はわずか158g。ラボの片隅にあった、ホースを括りつけただけの試作品から始まった探求は、いま自動化されたロボットの一吹きによって、世界最速のマラソンシューズへと結晶している。
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